そもそも空手の生い立ちやその歴史背景とは、古くは琉球王国に始まり・・・などという堅苦しいお勉強ごとはここではやめておきましょう。
(それが知りたいという方は、Wikipediaなどを訪れて調べてみてくださいね。)
空手とは一言で言えば、素手素足で戦うことを前提に、その技術を身に付けるという日本の伝統武道の一つです。
身近にある分かりやすい例を挙げていえば、クラスのいじめられっ子が自己防衛策としてもっとも適している習い事が空手です。
空手を始めると先ず拳の握り方を覚えます。自分の手を武器として使用する際に、一番効果的な手の握り方がどの様な形であるかについて学びます。 その後に突き方、蹴り方、戦う場合に適した姿勢、足運び・・・等、いざという場に自分が遭遇した場合にどのように戦えば自分を守ることができるか、 ということを習得していくことが稽古の目的です。
冒頭から少々物騒なお話でしたね。でも青少年教育の場におけるいじめの問題は、昔も今も変わらずにすぐ身近にあるもの。
もちろん話し合いも大事ですが、その解決方法については、いじめを受けている当人が心身ともに強くなることが一番に挙げられると我々は考えています。
空手はその部分を常々追求し、心身ともに訓練を重ねて日夜鍛え上げていくのです。
これはクラスのいじめられっ子の話に留まらず、それを守る側の人間としてという側面もあります。また、大人の社会生活においても同じですよね。
さて、前文で「心身ともに強くなる」と述べました。「心」とは書いて字のごとく精神的な部分。「身」とは肉体面を指すことはお分かりいただけるでしょう。
本来、武道を学ぶにあたって大切な部分は「心」のほうです。これが無くなると空手の道場は単なる暴力集団に成り下がってしまいます。
極真空手を創設した大山倍達総裁は生前、「侍とは、いつでも刀を磨いて鞘の中に納めておくもの。その刀は決して抜くことはない。」と語っておられました。
この言葉には、強さを求めて自己研鑽を重ねつつ、心をも磨き高めて必要の無い争いごとは起こさないという、
「心」の部分を大切にする教えが端的に表現されています。
とはいえ「心」の部分ばかりを追い求めて理屈ばかりを並べて肉体鍛錬を怠ると、それはやがて実践ではまるで役に立たないものになってしまいます。当然これもいけません。 ではどうすれば良いのでしょうか。
今から30年ほど前は、空手は大人の習い事でした。近年になって大人に混じって空手を習う青少年たちが次第に増え、ここ数年ではその割合が逆転してしまいました。
先に書いたいじめの問題も、その背景にあるのかもしれません。
極真館山陰支部では、そんな子供たちに対して「空手は学校では絶対に使用禁止。だけどいざという時・・・我が身に災難が降りかかってくるような際に全く使えないのもダメ。」
このように教えています。
空手の稽古は厳しいもの。来る日も来る日も自分の心にも体にもムチを入れ、辛い稽古に背を向けずに精進を重ねていきます。そうすることによって知らず知らずのうちに見違えるような人物となり、ある日様々な困難に立ち向かうことができる強い自分を 目の当たりにして、周りの人たちはもちろん自分自身でも驚くような日がきっと訪れますよ。